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格言から習い事を考える

こんにちは、校長の輪島貴史です

今、変換を間違えて
ワジマタカシです
と打ってしまった時に、

「うわっ、40歳越えて、自分の名前を堂々とカタカナで言うのって寒っ」
「カタカナで許される紳士の名前ってスガシカオ以外に思い浮かばん」
って思ってしまいつつもさらに、
「寒っ」って言葉さえも死語であると感じている90年代のヒット曲で青春時代を過ごした校長の輪島貴史です

今日は、格言について語りたいと思います

歴史上の人物の名言って好きなんですよ
で、名言の中でも、格言というのはまた別格ですね

その職業に就く者にとっては道しるべとなる言葉です
中には、あまりには専門的で、ぶっちぎり過ぎて一般職の方には理解し難いものもあると思います

そこで、今日は、もしかしたら一般職の方には理解しにくいかもしれない格言をご紹介し、それを受けての、自分の格言を述べたいと思います

つまり、この意図は、この格言をなんとなくでもいいから共感を示してくれる方々とご縁があったらいいなと思っています
逆に言えば、全く理解できない人は、自分のわが子はうちなんかに預けない方が賢明かもしれません
互いにとってそれが賢明である。そんな話です

それではいきます

まず

医師の格言

【女性を見たら全て妊婦だと思え】

これです

これを解説しますと
と、いいますか、格言というのは、本当は解説する事自体が無粋というものなのです
言えば言うほど、その言葉が薄っぺらいものになってしまいます
その言葉を感じたままに心に添えて指針とするのが格言なのですから・・・

それでもあえて、仕事と割り切って言及しますと

「目の前の女性の患者さんは、小学生でも老婆でも妊娠3ヶ月の妊婦さんである可能性を忘れるな」

という事です

「まさかそんな事はないだろう」
と常識の範疇で考えてはいけないという事です

なぜらば、妊婦さんにレントゲンなどの放射線を当てると胎児に深刻な影響を及ぼすからです
ちなみに世界では6歳以下での出産や、70歳以上の出産の事例があります
稀とはいえ、事例は事例です

しかし、その確認を口頭でおこなうと、小・中学生の親は激怒するかもしれません
というか、います。そんなクレームもあるそうです

「なぜそのような事を聞くのですか?失礼ではありませんか?セクハラで訴えますよ!」
という親もいるのです

気持ちはわかりますが、医師はまた別の視点から見ているのです
そのクレームは病院側がしっかりと説明しているので、表ざたの裁判にはなっていないのはそういう事です
もちろん状況にもよりますが
その医師による口頭確認を理解できる人はできるし、できない人はできないという話ですね

というわけでこれが医師の格言です

何度も申しますが、私の、子供体操教室の校長の意見ではないという事をご承知ください

 

次に
司法に携わる、検察・検事の格言です

【たとえ100人の悪人を野放しにしたとしても、一人の無実の人間を裁判にかけてはならない】

これです

これを解説すると
この人間が犯人であるという100%の確信を持たなければ、起訴してはならない
裁判にかけてはならない

というものです
仮にそのせいで真犯人を逃してしまったとしても
それでも無実の人間を裁判にかけてはならない
冤罪があってはならない、というものなのです

もし、無実の人間が有罪になるとすれば、それは裁判官の責任ではなく
裁判にかけていいかどうか、起訴するか不起訴にするか、を判断した検察の責任である
という事になります

昨今の日本でも、容疑者として報道される容疑者が犯人、悪人であり、ほとんどの人が罰を受けるべきと思っていたのに、
不起訴処分となり釈放となった事例は毎月、毎週のようにあります
私個人としても釈然としない時もあります
それはこの格言からくるものなのです

以上二つが、日本の国家資格の2トップ
医師と司法の格言となります

もしかしたら一般職には理解し難い部分はあるかもしれません
(一般職の定義はここではしません!)

 

では、次に、演出家の格言をご紹介します

私は元スタントマンであり、現在は演出家ですが
そんな私にも脚本の書き方を教えてくれた師匠がおります
その師匠の師匠は「北の国から」の作家の倉本聰です
私はまだ直にお会いした事はありませんが、大師匠の言葉という事になります

「演出家は、脚本家以上に脚本家が書けないと演出家にはなれない」

これです

これはかなりの理解し難い言語矛盾ですね

脚本を書くのは脚本家の仕事、その脚本を映画・ドラマの映像や舞台作品に仕上げるのは演出家の仕事なのですが
その演出家の仕事はあくまで演出であり、脚本を書く事ではないのですが
それでも演出家を名乗る以上、脚本家以上にその脚本の事を分かっていないと演出はできないというものです

ぶっちゃけ、演出家と脚本家どっちが儲かりますか?っていったら、脚本家です
もし、視聴率とか動員数とかで赤字が出たら誰のせいですか?っていったら演出家のせいです

演出家ってたまったもんじゃないですね(笑)
なら脚本家以上に書けるその才を使って脚本を書けばいいのに・・・
それでも演出家は書斎にこもって本を書くよりも
現場で全責任を負いながら指揮をふるうのです、脚本家ほどに儲かりもしないのに・・・

でも私は、この格言があるから演出家であると名乗れる気がします
名乗り続ける事ができるのだと思います
この格言は、私が子供の先生をしている、AOA体操スクールを立ち上げた源泉になっていると思うのです

子供が達成した成果は誰の功績ですか?と聞かれれば

習わせた親の功績でしょう。
これは譲れません
子供の頑張りではありません

習い事は遊びではありません。
習い事を遊びのようにハードルを下げる行為を、私は良いとは思いません
遊びは頑張っても、習い事を全身全霊で頑張る子供ってどのくらいいますか?

「この習い事は私の人生だ!」って本気で思えるならその子は将来
羽生ゆずるになりますよ
大谷翔平になりますよ

多分

そんなレベルです
習い事って、本心では頑張るのが嫌なくらいしんどいものなんです
遊びは遊び、習い事は習い事と、分けるべきなのです。

習い事は厳しくて嫌で嫌でしょうがないけど、親がやれっていうからやってくるくらいが丁度いいんです
嫌で嫌でしょうがないけどやるしかないからやるのを「努力」っていうんじゃないかなって思うのです
子供はできれば遊びたいんです、でも、親がやれっていうから続けてるだけなんです

だから習わせ続けた親の功績です、これだけは譲れません
ゆえに子供の成果は親の功績なのです

次に、子供の努力です
子供が嫌々でも続けたのですから、子供の努力です

そして三番目に先生の指導力です

我々こどもの指導者は、何を教えたところで親が続けさせてくれないと次はないのですから功績としては三番目なんですよ

「子供の功績は先生の功績ではない、親の功績である」
これだけは指導者として忘れてはいけない事であると、私は思います

そう思えるのは、演出家の格言からくるものです
演出家の格言を先生用に言い換えるなら

「先生をやりたいなら、親以上にその子供の事を分かってないと先生はできない」
でしょうか

生意気いってすいません

さて、これで今回の格言は終わりなのですが

え?
輪島先生の格言は?
って思う現在習わせてくださっている父兄もいらっしゃるかもしれません

いやいや、今更私が何を言いましょうか
これまでの格言に比べたら霞んでしまいます

それでも、勇気を持って、子供の先生の格言を言うとすれば

先ほどの大師匠の格言の前に
私の師匠の格言をお伝えさせてください

私は脚本を学ぶために師匠の元に訪れたのですが

私は「本当にやりたいのは演出です。私は演出家になりたいです」と言いました

その言葉を受けて師匠はこう言いました

「演出をやりたいなら自分で書け、他人の書いた本を演出したところでお前の功績にはならないぞ」

この言葉を真に受けた私は、脚本を書くためにとてつもなくしんどい執筆作業を続ける決心をし、今も続けています
この言葉がなければ、このブログを書く事にはなっていなかったかもしれません
毎回運営には「俺のこのブログ要る?」って思うのですが、
まあ、できれば現場の声もあった方がいいと思うので書いてますが
この書き続けるマインドは師匠の格言から来てますね

言い換えるなら

「先生をやりたいなら自分の言葉を伝えろ、誰かの格言を言ったところでお前の功績にはならないぞ」

ですかね

そんな誰かの格言を伝え、自分なりに言い換える事くらいしかできないのですが
最後に、今一度、自分の信念をお伝えするとすれば
それは父兄にではなく、若手の先生にです

「子供は全て、他国の王子・王女だと思え、しいては別の星の皇太子だと思え」

でしょうか

私たちは、文化、民族、言語すらも違うかもしれない小さな命をお預かりし、その教育の一部を任せて頂けました
それは光栄であり、誇り高き事です。
その任務を全うするために、聞き分けの無い子には注意もします、時には叱ります
「はい、今はしゃべっちゃダメだよ、集中しようね」といいながらも

心の声としては
「皇太子、この社会では口を謹んで取り組むのがマナーというものですぞ」
と、執事のような心で向き合いましょう

そのくらいですかね

私の言葉が、もし将来、格言になるのならば、その解説はそれを格言と言ってくれた人物にお任せします

 

輪島貴史

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